十一冊目 太宰治「走れメロス」
十一冊目は、太宰治の「走れメロス」!
太宰治先生の短編小説ですね。
「メロスは激怒した」から始まる小説で、小学生の頃に読んだという方も多いのではないでしょうか。
メロスは、村の牧人なのですが、とても正義感の強い人で、人の心を信じられない王が、人が悪心を持っていると疑い人を殺すというのに怒り、城に乗り込むのです!普通なら、そんなこと考えませんよね。しかも、短剣を持っていたのですから!(笑)
妹に亭主を持たせてやりたいと、三日間だけ猶予が欲しいというメロスは、友人、セリヌンティウスを人質に、三日の猶予を得ます。
もちろん、メロスほどの男にも未練はありました。「少しでも永く家にいたい。」と。
ですがメロスは村を出発し、王に人の信実のあることを見せるため、友人セリヌンティウスのために走るのです。
しかし険しい川を越え、山賊を打ち倒したメロスは、とうとう動けなくなってしまうのです。正義、信実、愛。メロスが今まで信じてきたものを、メロスがくだらないと否定してしまうほどに、メロスは身も心も疲れ果ててしまうのです。
そんなときでした、足元で水の流れる音がしたのです。見ると岩の裂け目から滾々と湧水が流れているのです。一口飲んで、メロスはもう一度走り出しました。
あれは悪い夢であったのだ。疲れていると、あんな嫌な夢を見るものだ。信頼にこたえねばならぬ。走れ、メロス!
メロスは間に合いました。声が出ず、釣り上げられていくセリヌンティウスの足に齧りついて、間に合ったことを見せつけました。
群衆がどよめきました。あっぱれ!と口々に言いました。
メロスはセリヌンティウスに、「私を殴れ」といいます。悪い夢を見た、殴ってくれなければ、君と抱擁する資格がないと。セリヌンティウスは音高くメロスを殴り、言います。
「私を殴れ」と。三日間、一度だけちらっと君を疑った。殴ってくれなければ、君と抱擁する資格がないと。メロスもまた、音高くセリヌンティウスを殴り、抱擁し、おいおいと泣くのです。
暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様子を見ていましたが、
「わしも仲間に入れてくれ」というのです。メロスの信実が伝わった瞬間でした。
私は、メロスのように人を信じることは出来ません。ですが、初めて「走れメロス」を読んだとき、メロスの考え方はとても極端で、そしてとても尊いものだと思ったのです。人を信じ、愛すること。それがどれほど素晴らしく、そしてどれほど難しい事か。
ディオニスもまた極端ですが、人はだれしも人を疑ってしまうと思うのです。
それが少しであれ、沢山であれ、人を疑ってしまうのです。
だから、メロスやセリヌンティウスはすごいと思いました。お互いを信じあう心が、私にはとても綺麗で、尊く思うのです。
まだまだ伝えたいことはありますが、百聞は一見に如かず。
是非とも走れメロス、読んだことがある人もない人も、手に取ってみて下さいね。
口紅を作ってみた
口紅を作ってみました
クレヨンとワセリンを使って作ったけど、クレヨンが妹ので
量を少なくしたから色が薄かった(笑)
でも春にはいいかもしれないなぁ…
なんて思ったりね
冬になったら、本当に真っ赤な口紅を作ろうかな
目指せ、和風美人!
今後は、和風美人目指して何か本以外の記事をあげてみようかな
というわけで、短いけど今回はここまで!
十冊目 太宰治「ヴィヨンの妻」
十冊目は、私が敬愛する太宰治先生の「ヴィヨンの妻」!
太宰治先生の「ヴィヨンの妻」の主人公の夫、大谷はかなりの放蕩者で、ある種、人格が歪んでいます。
表面上は魅力的で口達者なのですが、慢性的に嘘をつき、人をだますことに罪の意識は覚えません。
そんな夫を15世紀の放蕩詩人、フランソワ・ヴィヨンに見立てて、「ヴィヨンの妻」なのです。
遊び人の夫を持った女性が、シニカルかつ現実的で強い人間に変わっていく作品になっています。
主人公の「妻」は、大谷と二歳になる息子とともに暮らしていましたが、夫は酒ばかり飲み、家にはほとんど帰って来ません。収入もなく、息子は発育不良のためなのか、精神的にも見た目も二歳のまま。それでも細々と生活を続けていましたが、ある日、夜中になって家に帰ってきた夫の様子がおかしい。
普段の夫は、息子の調子が悪くても、
「病院に連れて行ったらよいでしょう」
などとうそぶいて出て行ってしまうのが、どういうわけか息子の様子を心配し、妙に優しい態度を見せました。
間もなく、玄関のほうで大谷を呼ぶ声が聞こえてきた。やってきたのは四十代の夫婦、なんと大谷を見るなり泥棒と詰り始めたのです。
夫も怒鳴り返してはいましたが、声は上ずり、
虚勢を張っているのがバレバレ。
その上逃げようとし、亭主に止められた時など、ナイフで脅す始末。
妻は二人を家にあげ、詳しく事情を聴くことに。
二人は中野で小料理屋を営んでいるようで、大谷は客だったのです。
三年前、戦争が始まって間もない頃、女に連れられてやってきた大谷は、最初こそ百円も払い、しかも釣りさえとらなかったが、後にも先にもこれっきり。これ以降彼がお金を払うことはなく、飲んでもうまいこと言って逃げるだけ。やれ自分は四国の大谷男爵の次男だ、やれ自分は何十冊も書いている日本一の詩人だと。
これは完全なでたらめであり、調子のよいことを言っては人をだましていて、後に分かったことだが、彼に乗せられてひどい目に遭った人は大勢いたのだ。
ついに、夫婦から五千円もの大金を強奪。来月の仕入れのためのお金を無言で奪い取られ、今回の騒動になったのだ。
確かに、彼は詩人で、雑誌に論文を乗せることもあるにはあるのだが、吹聴するような身分ではない。
外で会うようになって子が宿り、駆け落ちのようにして夫婦になったが、籍は入っていない内縁のままだった。
彼が家に帰るのは三、四日に一度。時にはひと月帰らない時もあり、帰ってきたかと思えば情緒不安定で震え、又出ていくことの繰り返し。金などなく、彼の古い知り合いの出版社の人々に僅かばかりの援助を受け、何とか食いつないでいるのです。
ひとまず妻が後始末をすると云い、警察は一日待ってもらえた。
お金が返せそうだと嘘をつき、お金が来るまでここを手伝うと云い、店に置いてもらった。常連は若い女性に喜び、その日は店も活気づいた。
やがて三角帽とマスクで変装した大谷が店にやってきて、どうやら警察沙汰になるのは厄介だと判断したバーのマダムが、お金を立て替えてくれたらしかった。
図らずも問題が解決し、残りを清算するために働かせてほしいと夫婦に頼み、快く受け入れられた。
居場所ができ、胸のつっかえが取れたような、楽しい日々を送った。身だしなみを整え、おかみさんに新しい足袋をもらい、お客さんは少なからぬチップを払ってくれる。
相変わらず勘定は妻に丸投げなものの、夫も帰る時に付き添ってくれることもあった。
この物語で、妻はしたたかに成長していく。
この頃、酒はまだ闇取引でしか手に入れられず、客も違法だとわかってて酒を飲む。皆犯罪人なのだ。
最後、妻の「私たちは、生きてさえいればいいのよ」という
言葉で終わるのだ。
私は、犯罪でありながらも酒を闇取引で手に入れる小料理屋の夫婦、わかっていて飲む客、盗みを働いた大谷、大谷のファンだという男と一夜を共にした妻。皆何かしらの罪を持っている。それでも生きている、人非人だといわれても、生きていればいいのだといえる妻が、すごいと思いました。確かにそうなのです。戦争の頃で、今とは価値観も違ったであろうあの頃。生きることで精いっぱいの人もいれば、お酒を飲むくらいの余裕のある人、それぞれ、たくさんいるのです。
それを、妻の目線で書かれているこの物語。
最初こそ、妻は夫にそれなりに好意を抱いていたのだ。
しかし、店で働くにつれて世の中がマイナスばかりであることを知り、ほかの男性と関係をもっても、夫が嘘とはいえ妻子を気遣う事を云っても、気にすることもなくなる。現実的で、強かな人に成長していく物語を書いた太宰治先生はやはり素晴らしい。
皆さんも是非、「ヴィヨンの妻」読んでみて下さいね。
パソコン復活!
パソコンが復活しました!!
喜びで泣きそうです……(´;ω;`)
今後はパソコンで更新していきます!
更新頻度下げてごめんなさい(土下座)
今後ともよろしくお願いします!
九冊目 中島敦「山月記」
李徴が虎になってしまうことで有名ですね。
李徴はとても才のある人で、また、プライドも高い人でした。官僚になりましたが、詩を読んで名を上げたいと思い、退職し詩人へ。
ですが名は上がらず、暮らしが厳しくなり再び官僚に。かつての同僚達は出世していました。
昔は歯牙にかけなかった者たちの命令を聞く。
プライドの高い李徴には苦痛でした。
そしてある日、とうとう夜中になにか叫びながら疾走り、そのまま姿をくらませました。
翌年、袁さん(漢字が変換できないので平仮名ですみません)が勅命で商於の地へ。朝早くに出発しようとしたところ、人食い虎が出るから白昼しか通れない。少し待てと言われる。然し、その制止を押し切って進んだところ、一匹の猛虎に襲われる。虎は袁さんに襲い掛かると思ったが、叢に隠れ、
「あぶないところだった」と繰り返し呟くのだ。袁さんはその声に聞き覚えがあった。
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
友人の少ない李徴にとって、最も親しい友であったかつての友、袁さんと再会し、僅かで良いから、かつて君の友であった李徴であった自分と話してくれないか、と。
二人は多くを話した。都の噂、旧友の消息、袁さんの現在の地位、それに対する李徴の祝辞。
そして袁さんはとうとう李徴になぜ虎になったのかを尋ねる。
今から1年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜、ふと目を覚ますと闇の中からしきりに自分を呼ぶ声がする。無我夢中で駆けていくうちに、知らぬ間に自分は両手で地面を掴んでいた。身体中力が満ち、いつの間にか毛が生えている。そして川を覗くと、虎になっていた。
夢だと思ったが、夢ではないと悟ってしまった。
目の前を一匹の兎が通るのを見た途端、自分の中の人間は姿を消し、気がついた時には、己の口は血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。
それ以降、虎のときと人間のときがあるのだと言う。そして、人間のときは日に日に少なくなっていく。
李徴は袁さんに、己の詩を覚えそらんじてほしいと頼む。一読して作者の才の非凡を思わせるが、どこか足りない詩。そして、即興で読んだ詩。
李徴は自尊心が強かった。彼は次第に世を離れ、人と遠ざかり、己の内なる臆病な自尊心を太らせた。
彼は袁さんにもう一つ頼んだ。妻子を頼みたいと。
李徴は死んだと告げて欲しい。決して今日の事は明かさないでほしい。
袁さんは受け入れ、そして、とうとうお別れが来た。
一行が丘の上についたとき、振り返るとたちまち一匹の虎が茂みから躍り出て、二声三声咆哮し、そして、その後その姿を表すことは無かった。
人が虎に変身してしまう「山月記」ですが、変身したのは果たして誰なのでしょうか。
一見、李徴が虎になりましたが、見方を変えると、彼は同期生らと違い、周囲に合わせて「変身」出来なかった不器用な男なのではないでしょうか。